siseiryu美術館・博物館放浪記

今までに観に行った美術館・博物館などの記録です。

♯188 ラファエル前派の軌跡展

f:id:siseiryu:20200329000954j:plain
f:id:siseiryu:20200329001005j:plain

観 覧 日 : 2019年4月13日

会  場 : 三菱一号館美術館

H  P : https://mimt.jp/exhibition/

展示作品 : ラファエル前派の軌跡展

期  間 : 2019年3月14日 ~ 5月19日

料  金 : 1,700円 ・ 図録 2,300円

総展示作品数 : 147点  (内説明あり)48点

セクション(構成) :5区画

 第1章 ターナーラスキン

 第2章 ラファエル前派

 第3章 ラファエル前派周縁

 第4章 バーン=ジョーンズ

 第5章 ウイリアム・モリスと装飾芸術

感想 :

1848年、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらが結成したラファエル前派兄弟団は、英国美術の全面的な刷新をめざして、世の中にすさまじい衝撃をもたらしました。この前衛芸術家たちの作品は、観る者の心に訴えかけ、広く共感を呼びました。人々は、社会の基盤が移りゆくなかで、彼らの芸術に大きな意義を見出したのです。

その精神的な指導者であるジョン・ラスキンは、あらゆる人にかかわる芸術の必要性を説く一方で、彼らとエドワード・バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスら、そして偉大な風景画家J.M.Wターナーとを関連づけて考察しました。

今回の企画展では、英米の美術館に所蔵される油彩画や水彩画、素描、ステンドグラス、タペストリ、家具など約150点を通じて、彼らの功績をたどり、この時代のゆたかな成果を展覧しました。


1.ヴィクトリア朝の英国を代表する芸術が一堂に
ターナー、ロゼッティ、バーン=ジョーンズ、モリス
ラスキンの生誕200年を記念する本展には、かれが見いだし、当時のアート・シーンの中心へと引き上げた、前衛芸術家の作品がつどいます。 ターナー《カレの砂浜―引き潮時の餌採り》、ロセッティ《ウェヌス・ウェルティコルディア(魔性のヴィーナス)》、バーン=ジョーンズ《赦しの樹》などの傑作が、海を越えて一堂に会します。


2.すべての人を芸術に近づけた、ラスキンのまなざし
ターナーの先駆的な表現に正当な評価を与え、いち早く前衛のラファエル前派同盟を擁護したラスキン。 かれの力強い言葉は、温かく、親しみに満ちていて、人々の心を捉えました。 とりわけ、その近代社会批判は、モリスらを手工芸の復興へと駆り立て、アーツ・アンド・クラフツ運動につながってゆきます。 ラスキンの眼を通して、19世紀の英国美術を概観します。


3.芽生え-ラスキンのまいた種
ラスキンは、美術界の中心となる人物のみに目を注いだわけではありません。その思想は、さまざまな周縁の芸術家にも浸透して、豊かな実りをもたらしました。 本展では、ラスキンが指し示した道から、新たな試みが芽生え、発展してゆくさまを、多彩な秀作によって跡づけます。


第1章 ターナーラスキン
ジョン・ラスキン(1819‐1900)が初めて J. M. W. ターナー(1775‐1851)に価値を見出したのは、1840年のこと。 自ら作品を買い求め、コレクションを形成する一方で、1843年、24歳の青年ラスキンは、この画家を擁護するために、広範な主題を扱った権威ある著作集『現代画家論(Modern Painters)』の第一巻を発表して、一躍著名になります。 当時のターナーは、存命する最も優れた英国人風景画家として広く認知される一方で、数年前から、理性による制御を取り払ったかのような荒々しい描き方を実践しており、その新しい独自の表現が強く非難されていました。 ラスキンは、この画家の作品を綿密に調査し、とりわけ版画集『研鑽の書(Liber Studiorum)』に収録された作品群と水彩画の研究に力を注ぎます。
自身も素描を日常的にたしなみ、描くという行為を通じて物質世界のあらゆる側面への洞察を深めたラスキンは、素描を手がけることで、関心の的となる事物すべての本質をより徹底的に見きわめられると考えたのです。

f:id:siseiryu:20200329233839j:plain
ウィリアム・ターナーナポリ湾(怒れるヴェスヴィオ山)」

f:id:siseiryu:20110613103046j:plain
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《カレの砂浜――引き潮時の餌採り》

f:id:siseiryu:20200329234152j:plain
ジョン・ラスキンストラスブール大聖堂の塔」

f:id:siseiryu:20200329234112j:plain
ジョン・ラスキン「渦巻レリーフルーアン大聖堂北トランセプトの扉」


第2章 ラファエル前派
1848年秋に前衛芸術家集団「ラファエル前派同盟(Pre-Raphaelite Brotherhood)」を結成した7名の画学生らのうち、その中心となったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828‐1882)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827‐1910)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829‐1896)は、英国美術史にきわめて大きな功績を残しました。 かれらは、ラファエロ以降の絵画表現を理想とする芸術家養成機関ロイヤル・アカデミーの保守性こそが、英国の画家を型通りの様式に縛りつけ、真実味のある人間感情の表現から遠ざけてきた、と主張します。 こうしてラファエロ以前に回帰する必要性を訴えて「ラファエル前派」と自ら名のったこの若手芸術家たちは、ありふれた感傷的な描き方から絵画を解放し、中世美術のように分かりやすく誠実な表現を取り戻そうとしました。 当初は悪意のある批評にさらされた彼らの試みを、ラスキンは高く評価し、1851年には日刊高級紙『タイムズ』に公開書簡を発表して、力強く擁護論を展開します。 ミレイやロセッティらとの親交が始まるのは、このあとのことです。

f:id:siseiryu:20200329234252j:plain
ジョン・エヴァレット・ミレイ「結婚通知-捨てられて」

f:id:siseiryu:20071210171829j:plain
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《ウェヌス・ウェルティコルディア(魔性のヴィーナス)》

f:id:siseiryu:20200329234423j:plain
ウィリアム・ホルマン・ハント「誠実に励めば美しい顔になる」

f:id:siseiryu:20200329234618j:plain
ロセッティ「ムネーモシューネー(記憶の女神)」

f:id:siseiryu:20090129140458j:plain
アーサー・ヒューズ《リュートのひび(不和の兆し)》


第3章 ラファエル前派周縁
ラファエル前派同盟が提唱した緻密な自然観察、そして主題の誠実な描写という大原則は、結成からわずか数年後の1850年代初頭には、人々に広く受け入れられていました。 やがて、年長のウィリアム・ダイスやフォード・マドックス・ブラウンらが、広い意味での「ラファエル前派主義(Pre-Raphaelitism)」を体現する代表的な存在とみなされるようになります。 これと並行して、ラスキンは著述活動を通じて、英国画壇に大きな影響を及ぼしました。 たとえば、1857年発表の素描論では、細心な注意を払って対象の細部までを描きこむことの重要性を説き、その年若い信奉者のなかから、ラファエル前派の風景画家が登場します。 他方で、彼らの周辺には、古代ギリシア・ローマ美術の再評価を推し進めたフレデリック・レイトンやジョージ・フレデリック・ワッツのような先進的な芸術家がいました。 1860年代に入るとラファエル前派主義は、欧州大陸の影響下から生まれた「芸術のための芸術」という信条を掲げる運動―絵画は物語の描写よりも形式が本来もつ純粋で感性的な価値によって評価されるべき、とする唯美主義運動―に溶け込んでゆきます。

f:id:siseiryu:20200329234834j:plain
ウィリアム・ヘンリー・ハント「ヨーロッパカヤクグリ(イワヒバリ属)の巣」

f:id:siseiryu:20100921123251j:plain
フレデリック・レイトン《母と子(サクランボ)》


第4章 バーン=ジョーンズ
オックスフォード大学で聖職を志していたエドワード・バーン=ジョーンズ(1833‐1898)は、ラファエル前派同盟の作品に感銘を受け、ラスキンの芸術論や建築論に心酔するあまり、1855年には大学を去って、芸術の道へと進みます。 ロセッティに弟子入りをし、その二年後には、師や親友ウィリアム・モリス(1834‐1896)らとともに、新築のオックスフォード大学学生会館の討論室にトマス・マロリー著『アーサー王の死』を主題とする壁画を描きました。 同じころ知り合い、精神的指導者(メンター)と慕うようになったラスキンからは、イタリアへと赴き、巨匠画家の作品から学び、素描に励むように、との助言を受けます。 1860年代のバーン=ジョーンズは、新たな様式を他に先駆けて追求する存在でした。 彼の絵画は、その大半が神話や文学的な主題にもとづく一方で、明確な物語性を欠く作品もあり、次第に、形式の完成度に重きをおくようになります。 そのいずれもが一貫して、同時代の世俗的な現実からは遠く隔たっていました。 1877年に最先端の美術を紹介するグロヴナー・ギャラリーが開かれると、バーン=ジョーンズは、19世紀末の英国で最も広く称賛される画家となります。

f:id:siseiryu:20200330000549j:plain
エドワード・バーン=ジョーンズ《慈悲深き騎士》

f:id:siseiryu:20200330000631j:plain
エドワード・バーン=ジョーンズ《赦しの樹》

f:id:siseiryu:20200330000654j:plain
バーン=ジョーンズ「三美神」


第5章 ウイリアム・モリスと装飾芸術
ウィリアム・モリスとバーン=ジョーンズは、1853年にオックスフォード大学で出会いました。それ以来、生涯の友となった彼らは、多くの作品を共同で手がけます。 バーン=ジョーンズと同じように、聖職に就くことをあきらめて画家・デザイナーとなる道を選んだモリスは、1857年に、若手芸術家としてオックスフォード大学学生会館討論室の壁画制作に参加しました。 そして翌1858年には初の詩集『グウィネヴィアの弁明(The Defence of Guinevere)』を、さらに1868年から1870年にかけては長大な物語詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』を発表。 この物語詩の挿絵は、バーン=ジョーンズが描く約束でした。 詩人としての評価を確立する一方で、1861年には家具、ステンドグラス、陶製タイル、壁紙、捺染布地や織物など、あらゆる種類の装飾芸術を扱う「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立します(1875年に単独経営の「モリス商会」に改組)。 作品の下絵はすべて、仲間の芸術家らが手がけました。 また、美しいデザインの書物を世に送り出すために、 1891年に私家版印刷工房「ケルムスコット・プレス」を開設。 晩年には、社会主義者の一人として、政治改革運動に全力を注ぎました。

f:id:siseiryu:20200330000952j:plain
モリス・マーシャル・フォークナー商会《シンデレラ(連作タイル画)――「灰かぶり」と呼ばれていた娘がガラスの靴を与えられ、やがて王女となる物語》

f:id:siseiryu:20180322113818j:plain
モリス商会《3人掛けソファ》

ラファエル前派について詳しく知りたい方は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A8%E3%83%AB%E5%89%8D%E6%B4%BE
をクリックして下さい。(ウィキペディア

個人的にはやっぱりバーン=ジョーンズが好きですね。
今までにも幾度か作品を観ましたが、あの独特な作風はとても好きです。また機会があれば観に行きたいと思います。


次回の更新は4月中~下旬頃を予定しております。